令和8年3月のカレンダー標語・法話

「お彼岸に、我がいのちの行方を聞く」

3月20日の「春分の日」は、太陽が真東から昇り、真西へと沈む日です。この日を中心とした一週間を、私たちは「お彼岸」として大切に過ごしてまいりました。

西方浄土と阿弥陀さま

私たちが歩んでいる浄土真宗の教えは、広く言えば「浄土教」という大きな流れの中にあります。浄土教とは、阿弥陀さまの極楽浄土に往生(生まれさせていただくこと)を目指す教えです。

『仏説阿弥陀経』というお経には、その浄土が西の方角にあると説かれています。そのため、古くから浄土教の信者は、西に向かって手を合わせてきました。お彼岸の時期は太陽がちょうど真西に沈むため、どこにいても浄土の方角がはっきりと分かります。沈む夕日に向かって手を合わせることは、そのまま極楽浄土におられる阿弥陀さまを礼拝することに繋がるのです。

なぜ浄土を願うのか

私たちは、生まれ変わり死に変わりを繰り返す「迷いの連鎖」の中に生きています。そこには多くの喜びもありましたが、それ以上に深い悲しみが続いていたのではないでしょうか。その悲しみの連鎖から抜け出して、さとりの仏となっていくことこそが、浄土教の肝心なところです。

私たちは自らの力や修行では、仏となることが叶いませんでした。そんな私たちをご覧になった阿弥陀さまが、「もはや放っておけない、私にまかせよ」と直接手を差し伸べてくださったのです。このお救いにあずかることこそが、私たちがこの人間のいのちを頂いた理由です。

いのちの行方は、すでに決まっている

阿弥陀さまにお任せをし、この人生を終えたときに浄土へ生まれさせていただく。つまり「我がいのちの行方」とは、阿弥陀さまの極楽浄土だったのです。

もしこのお慈悲がなければ、人生の終わりにどこへ向かうのか、不安で仕方がなかったでしょう。しかし私たちは今、すでに浄土への旅路の途中にいます。命が尽きるときに到着する場所が、はっきりと定まっているのです。

懐かしい方々と「出遇う」場所

「彼岸」という言葉には「極楽浄土」という意味があります。お彼岸にいのちの行方を聞くということは、阿弥陀さまにお尋ねするだけでなく、すでに浄土へ往かれた懐かしい方々を訪ねていくことでもあります。亡きお父さん、お母さん、おじいさん、おばあさん……。浄土は、大切な方々と「もう一度出会うことができる世界」なのです。

お彼岸にお墓参りに行かれる方も多いと思いますが、それは亡きご先祖を供養するためではありません。 浄土真宗において、お墓参りとは故人へ何かを届けたり、供養をしたりする場ではなく、私を浄土へと導いてくださるご先祖さまと「出遇う」ための大切な場なのです。

この春のお彼岸、どうぞお寺やお墓に足を運び、ご自身の「いのちの行方」に想いを馳せてみませんか。

三寒四温の折、皆さまどうぞご自愛ください。

合掌

大阪府豊中市光國寺 住職・石黒大

光國寺仏教婦人会・研修会

3月10日に光國寺仏教婦人会の研修会を開催いたしました。

開催は実に5年ぶりで、わたくし有澤が光國寺に来て最初の年に開催した以来でした。

内容は、まずはみんなで正信偈・草譜のお勤めをしまして、そのあとは、光國寺住職・石黒大さんよりお経の読み方のご説明をいただきました。
休憩をはさみながら、次はご法事の意義や、それにまつわるご法話などを、お聞きかせいただきました。

また最後は、浄土真宗の歌を練習して、みんなで歌って締めくくり。

約2時間ほどのお時間でしたが、ワイワイしながら、みんなで過ごす時間はいいなっと、あらためて思うことでした。

お寺というのは不思議な場所で、そこは、ちょっと日常の忙しさを置いといて、自分とご縁と向き合う場所。

そんな場所をまた、これからもみなさんと共有できたらと思います。

それではまた。
よき日々となりますように。

合掌

大阪府豊中市・光國寺 有澤正行

令和8年2月のカレンダー標語・法話

「この口からお念仏 阿弥陀さまはいつもご一緒」

光國寺では、大晦日から元日にかけて除夜の鐘を撞きました。皆さまも、それぞれの地域のお寺で除夜の鐘を撞かれましたでしょうか。

除夜の鐘といえば、「108回撞くのですよね」「煩悩の数ですよね」という話題をよく耳にします。煩悩が108あるという説は、5世紀頃の天親菩薩(世親菩薩)が著された『阿毘達磨倶舎論』(あびだるまくしゃろん)という書物に基づくものです。煩悩は非常に細かく分類され、最終的に108あると説かれます。仏教の教えは、このように人の迷いを丁寧に見つめ、分析してきました。

仏教は心の分析を非常に緻密に行います。この書物では、まず煩悩を「執着」「怒り」などの6つに大きく分類します。そこからさらに「誤った見解」などを細かく分け、計算していくと、真理を知らないことによる煩悩が88、本能的な煩悩が10、合わせて98となります。そこに付随する副次的な煩悩10を足して、合計「108」となるのです。

これほど細かく分類される私たちの煩悩ですが、果たして鐘を撞くことで消えるのでしょうか。

厳しい修行を積む出家者ならともかく、私たちが年に一度鐘を撞いたところで、根深い煩悩はそう簡単には消えません。光國寺ではお一人につき一回撞いていただきますが、もし消えるとしてもたった一つの煩悩です。しかし、私たちが年末年始に撞く鐘に、煩悩を滅する力はありません。鐘を撞いたからといって、私たちの迷いがなくなるわけではないのです。

では、そんな煩悩まみれの私の口から出る「お念仏」とは何なのでしょうか。

仏教では行いを「身(体)・口・意(心)」の三つに分けますが、通常、口の行いは意(心)を根源として出てきます。つまり、煩悩の心からは煩悩に毒された言葉しか出ないのです。しかし、お念仏だけは違います。

お念仏は、私の行いのように見えて、実は「阿弥陀さまからの働きかけ」なのです。「私の慈悲が届いた者は、お念仏するんだよ」と、阿弥陀さまが私たちを教育し、導いてくださった結果として口に現れるものなのです。

「お念仏しよう」と意識して称える時、それは阿弥陀さまの教えを受けて練習している状態です。その練習が積まれ、自然と口からこぼれるようになった時も、その根底には「阿弥陀さまのお心」があります。

練習であれ、自然なものであれ、お念仏が出るその口には、必ず阿弥陀さまがご一緒くださっています。煩悩多き身であるからこそ、阿弥陀さまのお慈悲に包まれていることに感謝し、今月もともにお念仏申す日々を過ごしてまいりましょう。

大阪府豊中市・光國寺 住職・石黒大

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