【いつでもどこでも南無阿弥陀仏】

浄土真宗はいつでもどこでも南無阿弥陀仏のお念仏です。

自分に嬉しいことがあった時
南無阿弥陀仏
自分に悲しいことがあった時
南無阿弥陀仏
自分に楽しいことがあった時
南無阿弥陀仏
自分に苦しいことがあった時
南無阿弥陀仏

朝起きた時
南無阿弥陀仏

ご飯をいただく時
南無阿弥陀仏

トイレにいく時
南無阿弥陀仏

お風呂に入る時
南無阿弥陀仏

今日も一日終える時
南無阿弥陀仏

今日までのご縁に
南無阿弥陀仏

これからの命の往く先も
南無阿弥陀仏

あなたを大事に思う
南無阿弥陀仏

いつでもどこでも、阿弥陀さまは一緒にいてますよ。

大阪府豊中市・光國寺

令和六年 光國寺・永代経法要が勤まりました。

令和6年5月19日、20日の両日で「光國寺・永代経法要」が勤まりました。

今年は様々なご縁のおかげさまで、お参りの方も多く、両日合わせて約100人近くの方にお参りいただきました。ありがとうございます。

先立ち往生されたいのちをはじめ、様々なご縁によって、まずはここまで「お育て」をいただいてきた私。そして、この先もそんなご縁のなか、また阿弥陀如来という仏様が見守りお救いくださるご縁のなか、次の一時を歩ませていただくことに、手を合わせてお念仏と共にお参りをさせていただくことでございます。このいのちの縁と仏縁を永く後世に残してゆき、阿弥陀如来という仏様に見守られながら、嬉しいこと、悲しいこと、楽しいこと、辛いこと、色んなことがありますが、人と人の縁の中、また仏縁の中で過ごさせてもらうことであります。

今年のご講師は佐々木大観師にお願いいたしました。

また、YouTubeにてアップしておりますので、お勤めと共にご法話もお聞きいただきまして、お参りください。

光國寺・有澤

【御衣黄桜が咲きました】

お寺の門をくぐった先にあります御衣黄桜が咲きました。

いつもの白色やピンク色の桜も好きですが、この黄色と緑色の筋の混ざった黄緑色の味わいもとても良いものです。「御衣黄」という名前の由来は、「楚々(そそ)清らかで美しいさま」とした風合いが貴族の衣服「御衣」の萌黄色(もえぎいろ)に近いため、ということらしいです。

開花の期間は長くありませんが、いつもの桜とはまた違った楽しみ方ができますので、お近くにお越しの際は、ぜひ一度お立ち寄りください。

大阪府豊中市 浄土真宗本願寺派・光國寺 有澤

【今年もここで桜に出逢う】

みなさま、こんにちは。

今年もあっという間に4月です!はやい!こわい!おそろしい!

3月は雨も多くあまり暖かくならなかったので、お寺の桜の開花もとてもゆっくりな年となりました。私は3月の最終週に天満橋で桜クルーズというものに参加しましたが、見事に「花見」ではなく「枝見」でした。どこを見ても枝!枝!枝!で自分でもちょっと笑ってしまうことでした。

そんな今年ではありますが、やはりお寺に桜が咲きますと「あぁ今年もここで桜と出逢いましたなぁ」と咲いた桜とそんな挨拶をすることでございます。また去年から今年への一年のことを思いながら「この一年も色んな縁の中で過ごさせてもらったな」となんとなく手を合わせる心もチラホラ顔を覗かせることであります。

そんなことを思いながら出逢う桜なのですが、きっとみなさんにも「今年もここで桜に出逢う」ということがあるのでは?と私は思うのです。それは、毎年同じ場所で見る桜といいますか、自分の桜といいますか、そこには人それぞれに自分の特別な桜があるように思います。時の流れを感じるもよし。色んな縁を感じるもよし。きっと私たち日本人にとって、桜とはなんとも不思議で時に感慨深く特別なものなのかもしれません。

そして、そんな自分の桜と今年も出逢いながら、去年から今年への一年、また来年の桜に思いをはせながら「これまでも、これからも色んな縁とともに歩ませてもらうのだろうなぁ」とそんな心がチラホラとまた顔を覗かせることであります。

それではよろしゅう、よろしゅう。

浄土真宗本願寺派・光國寺 有澤正行

【工夫する楽しさ】

みなさまこんにちは。

先日お寺で使う蝋燭に関しての作業をしていました。お寺の永代経法要や報恩講法要では「和蠟燭」を使用します。その蝋燭も使いまわしをせずに、毎回「初事である」という気持ちを込めて、その都度新しい蝋燭に火をつけます。当然、途中で使い終わってしまいますので、あまりがどんどん増えていくことです。そこで、近年はカートリッジ交換式の蝋燭をいうものがありますので、使い終えたカラのカートリッジに法要使用で余った和蝋燭を良いサイズに加工して新しい蝋燭として再利用しています。

ひとつのものをできるだけ最後まで使い続けることは大事な心得です。もちろん「勿体ない」ということでもありますが、私個人的には「工夫をする楽しさ」を大事にしています。

工夫というのは「あれこれ考えて(自分にあった)方法を探す」ということです。最近では「SDG’s」という言葉があるように、何でもかんでも消費して捨ててしまうだけでなく、長い目で見てゆく中で、世界規模で継続して良く過ごしてゆける世界を目指しています。そんな中、小さなことでも細かなことでも、工夫して過ごすということは、みんなが良く過ごしてゆける世界へと続いてゆくのではないかと思います。

そしてまた、ここでいう楽しさは「ある程度それで納得する」ということです。世の中なんでもかんでも自分の思い通りであれば、工夫はいらないかもしれません。しかしながら、なかなか自分の思い通りにはいきませんので、工夫しながらある程度納得することは必要ではないでしょうか。もし、うまくいってそうな人がいたならば、もしかしたら「ある程度で納得している人」かもしれませんね。

全て完璧にとはいきませんし、たぶん自分が目指し、想像した結果にはならないかもしれませんが、それでも自分の出来ることから、工夫をしながら楽しませてもらったらよいのではないでしょうか。

それでは、工夫をしながら楽しんで「あたらしい蝋燭」を作っていきたいと思います。

浄土真宗本願寺派・光國寺 有澤正行

【心はごまかせる ごまかせぬ身に仏法聴聞】カレンダー標語 令和六年二月


2024年 令和6年2月の標語

【心はごまかせる ごまかせぬ身に仏法聴聞】

みなさま、ようこそのお参りでございます。

この標語の意味がすぐにおわかりになりましたか。言いたいことがすとんと理解できたでしょうか。。私は少し考えこんでしまいました。

 「本音と建て前」という言葉があります。心の中で思っていることと、話していることは違うということです。心で思っていることが本当で、言っていることは本当ではないというのが「本音と建て前」です。ここでごまかすという言葉が入れば、ごまかしているのは、話している相手であって、自分の心をごまかしているわけではありません。しかしこの標語で心はごまかせるというのは、自分の心をごまかして生きているという事です。

 例えば、ドラマなんかでも、心はごまかせないぞ、というようなセリフがあります。自分の心を一時ごまかせても、いずれごまかしがきかなくなって後悔するよというようなシチュエーションが多いような気がしますが、心はごまかしきれないという前提があります。最後までごまかしきれるのであれば、心はごまかせない、ということができないからです。

 さて、今この標語では、ごまかせるのは心で、身はごまかせないと言っています。これはいったいどういう事でしょうか。ごまかせぬ身に仏法聴聞と言っていますから、ここでいう「ごまかす、ごまかさない」は他者との関係の中で言っているのではなくて、自分の心と身、身体との関係です。自分の心はごまかせるが、自分の身、身体はごまかせないから、仏法聴聞が大事だということです。仏法聴聞とは何でしょうか。今ここで言う仏法聴聞とは、広く言えば、四苦八苦からの解脱、離脱です。今回は四苦に限定しますが、四苦八苦の四苦とは、生老病死の四つの苦です。生苦・老苦・病苦・死苦の四つを四苦と呼んでおりますが、この四苦からの解脱、現代の用語で言えば離脱するといえばよいでしょうか、四苦から離脱していくことが、さとりを得ていく、つまり仏に成るということです。苦から離脱するということを聞けば、苦から離れるというようなことを連想しますが、どちらかと言えば、それらの苦を受け入れることが、苦からの離脱を得る近道です。

ところで「苦」とはいったいなんでしょうか。苦とは、苦しいとか苦しみという意味の漢字を書きますが、仏教で言うところの苦とは、苦しいとか、苦しみというような意味ではありません。今の四苦で言えば、老いの苦しみ、病の苦しみ、死の苦しみ、というように理解される場合もあります。しかし、例えば、死の苦しみといっても、老衰で、親族に見まもられ、穏やかに亡くなられた方をみて、死の苦しみがあるとはもうしません。しかし仏教では、そのような死であっても四苦であることには間違いないのです。なぜならこの四苦、四つの苦というのは、人間の根本の苦であるからです。ですから、苦を苦しみとか、苦しいと受けとめると、意味が通りません。仏教で言うところの苦というのは、苦しいということではなくて「思い通りにならない」という意味です。思い通りにならないからこそ、結果としてそこに苦しみを感じてくるということです。お釈迦様がおっしゃった人生皆苦、人生はすべて苦なのだというのは、すべて思い通りには行かないのだ、ということです。だからこそ第1が生苦と言って、生まれてくることが苦であるとおっしゃいました。生まれてくる時に、自分の思い通りに生まれてきた方がおられるでしょうか。結果としてこれで良かった、自分としてはいいところに生まれてきたと満足されている方も多いとは思いますが、結果としてではなく、先ず私がどこそこの、誰それさん夫婦の何番目の子としてこういう姿形でいついつ生まれるんだ、というようなことをデザインして、そうしてその通り生まれてこられた方はおられますか。つまり生まれてくる時に、自分の思い通りに生まれてきた方はおられないのです。同じように、このように老いて、このように病を得て、そしてこのように死んでいこうと思い、その通りになる方はおられません。人生の根本において私の思い通りになっているものはないのです。

ただ、それでも中には時に私の思い通りになることもあるとおっしゃる方がおられます。なるほど、私の思ったとおりになったことがあったかも知れません。しかし、本当に私の思ったとおりに物事が進んだでしょうか。私がすべてをコントロールして、私の思い通りに動かすことができたのであれば、思い通りと言えるでしょう。しかし実際には、私から見えるもの見えないもの、多くの関係性の中にあって、その中で私もまたその一つの関係の中で動いているということを考える時に、私の思い通りであるというのは、大変思い上がった考え方だと分かります。

例えば旅行に行くとしましょう。家族で、あるいはお友達と、はたまたお孫さんと、それぞれ一緒に行きたいひとを思い浮かべて下さい。その方と一緒に行って、楽しい時間を過ごして、本当に夢のような時間だった。思い通りの旅行ができて楽しかったと、そういうことがあったとしましょう。ほら、思い通りのことが人生の中にあるじゃないですか、そういう風に思えます。でも本当にあなたの思ったとおりの旅行でしょうか。新幹線には騒がしい子どももいなくて気持ちよく移動できて、立ち寄り先では待ち時間もなく、ホテルのチェックインでは待たされることもなく、本当に思ったとおりスムーズにいったとして、それは本当にあなたがデザインしたことだったでしょうか。静かな新幹線も、もしかすると他の乗客は、今日は騒がしいなと思っていて、実はそれは我が子だったということもあるかも知れません。

仏教では、縁というように考えていて、たまたま私にとって好ましい状況があったとしても、それは私がそうなるようにしたわけではなく、縁によってそのような状況が生まれたに過ぎず、その縁が違えば私が好ましいと思った状況はすぐに変わってしまうのです。つまり、私がいくら好ましい状況、自分の思ったとおりの状況であっても、実は思い通り、文字通り、自らの思いを実現するためにすべてをコントロールしたのではなくて、私がすべてをコントロールしたわけではないけれども好ましい状況が出現しているに過ぎないのです。それを誤認して思い通りになることがあると思うから、そうではない時に、必要以上にガッカリしたり、不平不満につながったりするわけです。。

私たちは、思い通りにならないことを、思い通りにできると思い込むことが多々あります。その代表格が、四苦、四つの苦です。これらをともすれば、コントロールしたい、できるはずだと思い込んでいるのです。アンチエイジングが大流行です。誰しも老いたくない、若くありたい、同じ老いるならああいう風に老いたい。色々希望があると思います。しかし理想と現実が違えば私たちはついつい現実から目をそらします。

少しだけ老いてきた時に、顕著に表れます。先日道を歩いていましたら、つまづきました。それ自体はたいしたことではないです。道を歩いてつまずくことくらい、あることです。でも、つまずいた後、何をしますか。振り返ります。つまずいたあたりを見てみます。特にこれといって何もありません。でも少し道がでこぼこしているのを見て、道が少しデコボコしているから仕方なかったとそう思って、また歩き始めるのです。これまでつまずくことがなかったところでつまずいたわけですし、前を見て歩いていたわけですから、そこに何もないことは分かっているのですが、やはり振り返らすにはいられません。何をしているのでしょうか。心をごまかしている瞬間です。これまでつまずきもしなかった何もなかったところでつまずくその原因は、ただの衰え、老化です。でもそれを認めたくないから、わざわざ振り返り、ちょっとしたデコボコを認めては、まあ仕方なかった、と心をごまかします。しかし、体はそうはいきません。たとえ心をごまかしても、つまずく時はつまずく、これが体です。

体は正直です。ふとした時に、それを感じます。その正直に体に表れてきた現象を見て見ぬふりをするのが、心をごまかすということです。心をごまかしながら歩みを進めるのではなく、思い通りにならない現実を直視していくことが大事です。それを見せてくれるのが、仏法聴聞です。仏法聴聞、教えを聞いていくところに思い通りにならない現実を受け入れていく力を得ていく事になります。。

思い通りにならない現実をただ嘆くのではなく、思い通りにならないはずが、思い通りになった時に、その縁を喜ぶことができるようになりたいものです。

【心はごまかせる ごまかせぬ身に仏法聴聞】

2月の標語でした。それでは皆さんごきげんよう。

浄土真宗本願寺派・光國寺住職・石黒 大

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