令和8年1月 カレンダー標語・法話

「気持ち新たに 仏法聴聞のいのちを頂く」

新しい年を迎えました。お正月は、誰にとっても等しく新しい一年のいのちを迎える節目です。かつては「数え年」という考え方があり、お正月に皆が一斉に年を重ねていました。そこには、一年のいのちを無事にいただいたこと、そしてまた新たな一年を恵まれたことへの喜びと感謝の気持ちで、初詣にお参りされたことです。

現代ではそのように年を取ることはありませんが、私たちの宗旨である浄土真宗は、「今、ここで」お念仏申すお宗旨です。本来、「今日から」「明日から」という区切りはありません。それでも、新年という節目に、気持ちを新たにして、お念仏の日暮らしをあらためて味わってみてはいかがでしょうか。

ところで、皆さまはご家庭のお仏壇や、お寺へ初詣はされましたでしょうか。初詣とは、新しい一年のいのちを恵まれたことを喜び、仏さまにご挨拶申し上げるお参りです。まだの方は、ぜひお仏壇に手を合わせ、阿弥陀さまに新年のご挨拶をいたしましょう。また光國寺の阿弥陀さまにもお参りください。

さて、「仏法聴聞のいのちを頂く」とは、どういうことでしょうか。浄土真宗はお念仏を申すお宗旨ですが、それは闇雲に称えるものではありません。阿弥陀さまが、すでに願いを成就し、「わが名を称えよ」と私たちに呼びかけてくださっているからこそ、お念仏申すのです。その呼びかけを聞かせていただくのが、仏法聴聞というお育てです。

私が称えるお念仏でありながら、そこに出てくださるのは阿弥陀さまです。南無阿弥陀仏と称えるその一声一声が、仏さまの喚び声として聞こえてくるところに、仏法聴聞の尊さがあります。どうぞ今年一年、気持ち新たに、お念仏とともに歩む日々を大切にお過ごしください。

「気持ち新たに 仏法聴聞のいのちを頂く
2026年、1月の標語でした。

大阪府豊中市・光國寺 住職・石黒大

新年のご挨拶 令和8年

新年あけましておめでとうございます。
令和八年(二〇二六年)の年頭にあたり、謹んでご挨拶申し上げます。

旧年中は、光國寺の護持発展に際し、門信徒の皆さまをはじめ、多くの方々より格別のご厚情とご協力を賜り、誠にありがとうございました。おかげさまをもちまして、つつがなく新年を迎えることができましたこと、衷心より御礼申し上げます。

さて、振り返りますと、当山におきましても、新型コロナウイルス感染症の影響がようやく落ち着きを見せ、諸行事をほぼ従前の形にてお勤め申し上げる一年となりました。五月の永代経法要、十一月の報恩講法要には、多くの皆さまにご参詣賜り、また尊いご懇志をお寄せいただきましたこと、重ねて厚く御礼申し上げます。

報恩講法要におきましては、二日間にわたり雅楽を用いてお勤めいたしました。雅楽は神社の音楽として知られておりますが、大仏開眼法要の際に我が国へ伝えられたとも伝えられ、仏教とも深いご縁を有する音楽であります。お経の音楽である声明と同様、仏法を荘厳する大切な響きでございます。

本日の修正会でもお勤めいたしました「正信偈六首引き」は、節を伴う声明であり、雅楽とも通じる音楽的要素を備えております。報恩講二日目のお勤めは、いわば雅楽と声明が相まって響く、荘厳なる法要となりました。ご関心をお持ちの方は、光國寺チャンネルの動画をご覧いただければ幸いに存じます。

本年も、阿弥陀如来の大いなるお慈悲のもと、お念仏申す日々を大切に歩んでまいりたいと存じます。皆さまにとりまして、この一年が安穏にして意義深き年となりますことを、心より念願申し上げます。

浄土真宗本願寺派・光國寺 住職・石黒大

令和7年12月のカレンダー標語・法話

直枉会カレンダー 12月標語・法話

皆さんこんにちは。師走となり、朝夕の寒さが身にしみる季節となりました。いかがお過ごしでしょうか。

さて、今月の標語を味わってみたいと思います。
2025年(令和7年)12月の標語は、
「不平こぼすこの口から 南無阿弥陀仏がこぼれる」 です。

私たちは日々の暮らしの中で、つい不平不満を口にしてしまいます。なぜでしょうか。
仏教では「人生は苦なり」と説かれますが、この「苦」とは単に苦しいという意味ではなく、「思い通りにならない」ということを表しています。

生・老・病・死の四苦八苦という言葉がありますが、「生まれることも苦」であると言われます。それは、自分の意思で生まれる場所や時代、親を選ぶことができないからです。人のいのちは、何一つ思い通りにはならないところから始まっているのです。

現代では、インターネットや動画を通してさまざまな考え方に触れることができます。しかし一方で、同じ価値観や意見ばかりが表示され、異なる考えに触れにくくなる傾向もあります。その結果、「自分とは違う考えがある」という事実そのものを忘れてしまい、社会の分断が進んでいく――これは決して他人事ではありません。

仏教は、私たちの人生は「縁」によって成り立っており、自分の力で思い通りになっているものは一つもない、と教えます。不平がこぼれるのも、その思い通りにならない現実を生きているからこそでしょう。

しかし、その不平をこぼすこの口から、「南無阿弥陀仏」というお念仏がこぼれ出てくださるのです。
さとりから最も遠いこの私の口に、さとりそのものである阿弥陀さまが、声となって現れてくださる。ここに、阿弥陀さまのお慈悲が表れています。

私たちは、自分の力だけでは仏さまのもとへ向かうことができません。だからこそ阿弥陀さまは、「私の方から迎えに行こう」と、いのちをいただいたその時から、ずっとご一緒くださっているのです。

不平のこぼれる日常のただ中に、阿弥陀さまはいてくださいます。不平をこぼしたその後に、「ここに阿弥陀さまがいてくださる」と、心新たに南無阿弥陀仏とお称えしたいものですね。

不平こぼすこの口から 南無阿弥陀仏がこぼれる
2025年12月の標語でした。

大阪府豊中市・光國寺・住職 石黒大

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