【心はごまかせる ごまかせぬ身に仏法聴聞】カレンダー標語 令和六年二月


2024年 令和6年2月の標語

【心はごまかせる ごまかせぬ身に仏法聴聞】

みなさま、ようこそのお参りでございます。

この標語の意味がすぐにおわかりになりましたか。言いたいことがすとんと理解できたでしょうか。。私は少し考えこんでしまいました。

 「本音と建て前」という言葉があります。心の中で思っていることと、話していることは違うということです。心で思っていることが本当で、言っていることは本当ではないというのが「本音と建て前」です。ここでごまかすという言葉が入れば、ごまかしているのは、話している相手であって、自分の心をごまかしているわけではありません。しかしこの標語で心はごまかせるというのは、自分の心をごまかして生きているという事です。

 例えば、ドラマなんかでも、心はごまかせないぞ、というようなセリフがあります。自分の心を一時ごまかせても、いずれごまかしがきかなくなって後悔するよというようなシチュエーションが多いような気がしますが、心はごまかしきれないという前提があります。最後までごまかしきれるのであれば、心はごまかせない、ということができないからです。

 さて、今この標語では、ごまかせるのは心で、身はごまかせないと言っています。これはいったいどういう事でしょうか。ごまかせぬ身に仏法聴聞と言っていますから、ここでいう「ごまかす、ごまかさない」は他者との関係の中で言っているのではなくて、自分の心と身、身体との関係です。自分の心はごまかせるが、自分の身、身体はごまかせないから、仏法聴聞が大事だということです。仏法聴聞とは何でしょうか。今ここで言う仏法聴聞とは、広く言えば、四苦八苦からの解脱、離脱です。今回は四苦に限定しますが、四苦八苦の四苦とは、生老病死の四つの苦です。生苦・老苦・病苦・死苦の四つを四苦と呼んでおりますが、この四苦からの解脱、現代の用語で言えば離脱するといえばよいでしょうか、四苦から離脱していくことが、さとりを得ていく、つまり仏に成るということです。苦から離脱するということを聞けば、苦から離れるというようなことを連想しますが、どちらかと言えば、それらの苦を受け入れることが、苦からの離脱を得る近道です。

ところで「苦」とはいったいなんでしょうか。苦とは、苦しいとか苦しみという意味の漢字を書きますが、仏教で言うところの苦とは、苦しいとか、苦しみというような意味ではありません。今の四苦で言えば、老いの苦しみ、病の苦しみ、死の苦しみ、というように理解される場合もあります。しかし、例えば、死の苦しみといっても、老衰で、親族に見まもられ、穏やかに亡くなられた方をみて、死の苦しみがあるとはもうしません。しかし仏教では、そのような死であっても四苦であることには間違いないのです。なぜならこの四苦、四つの苦というのは、人間の根本の苦であるからです。ですから、苦を苦しみとか、苦しいと受けとめると、意味が通りません。仏教で言うところの苦というのは、苦しいということではなくて「思い通りにならない」という意味です。思い通りにならないからこそ、結果としてそこに苦しみを感じてくるということです。お釈迦様がおっしゃった人生皆苦、人生はすべて苦なのだというのは、すべて思い通りには行かないのだ、ということです。だからこそ第1が生苦と言って、生まれてくることが苦であるとおっしゃいました。生まれてくる時に、自分の思い通りに生まれてきた方がおられるでしょうか。結果としてこれで良かった、自分としてはいいところに生まれてきたと満足されている方も多いとは思いますが、結果としてではなく、先ず私がどこそこの、誰それさん夫婦の何番目の子としてこういう姿形でいついつ生まれるんだ、というようなことをデザインして、そうしてその通り生まれてこられた方はおられますか。つまり生まれてくる時に、自分の思い通りに生まれてきた方はおられないのです。同じように、このように老いて、このように病を得て、そしてこのように死んでいこうと思い、その通りになる方はおられません。人生の根本において私の思い通りになっているものはないのです。

ただ、それでも中には時に私の思い通りになることもあるとおっしゃる方がおられます。なるほど、私の思ったとおりになったことがあったかも知れません。しかし、本当に私の思ったとおりに物事が進んだでしょうか。私がすべてをコントロールして、私の思い通りに動かすことができたのであれば、思い通りと言えるでしょう。しかし実際には、私から見えるもの見えないもの、多くの関係性の中にあって、その中で私もまたその一つの関係の中で動いているということを考える時に、私の思い通りであるというのは、大変思い上がった考え方だと分かります。

例えば旅行に行くとしましょう。家族で、あるいはお友達と、はたまたお孫さんと、それぞれ一緒に行きたいひとを思い浮かべて下さい。その方と一緒に行って、楽しい時間を過ごして、本当に夢のような時間だった。思い通りの旅行ができて楽しかったと、そういうことがあったとしましょう。ほら、思い通りのことが人生の中にあるじゃないですか、そういう風に思えます。でも本当にあなたの思ったとおりの旅行でしょうか。新幹線には騒がしい子どももいなくて気持ちよく移動できて、立ち寄り先では待ち時間もなく、ホテルのチェックインでは待たされることもなく、本当に思ったとおりスムーズにいったとして、それは本当にあなたがデザインしたことだったでしょうか。静かな新幹線も、もしかすると他の乗客は、今日は騒がしいなと思っていて、実はそれは我が子だったということもあるかも知れません。

仏教では、縁というように考えていて、たまたま私にとって好ましい状況があったとしても、それは私がそうなるようにしたわけではなく、縁によってそのような状況が生まれたに過ぎず、その縁が違えば私が好ましいと思った状況はすぐに変わってしまうのです。つまり、私がいくら好ましい状況、自分の思ったとおりの状況であっても、実は思い通り、文字通り、自らの思いを実現するためにすべてをコントロールしたのではなくて、私がすべてをコントロールしたわけではないけれども好ましい状況が出現しているに過ぎないのです。それを誤認して思い通りになることがあると思うから、そうではない時に、必要以上にガッカリしたり、不平不満につながったりするわけです。。

私たちは、思い通りにならないことを、思い通りにできると思い込むことが多々あります。その代表格が、四苦、四つの苦です。これらをともすれば、コントロールしたい、できるはずだと思い込んでいるのです。アンチエイジングが大流行です。誰しも老いたくない、若くありたい、同じ老いるならああいう風に老いたい。色々希望があると思います。しかし理想と現実が違えば私たちはついつい現実から目をそらします。

少しだけ老いてきた時に、顕著に表れます。先日道を歩いていましたら、つまづきました。それ自体はたいしたことではないです。道を歩いてつまずくことくらい、あることです。でも、つまずいた後、何をしますか。振り返ります。つまずいたあたりを見てみます。特にこれといって何もありません。でも少し道がでこぼこしているのを見て、道が少しデコボコしているから仕方なかったとそう思って、また歩き始めるのです。これまでつまずくことがなかったところでつまずいたわけですし、前を見て歩いていたわけですから、そこに何もないことは分かっているのですが、やはり振り返らすにはいられません。何をしているのでしょうか。心をごまかしている瞬間です。これまでつまずきもしなかった何もなかったところでつまずくその原因は、ただの衰え、老化です。でもそれを認めたくないから、わざわざ振り返り、ちょっとしたデコボコを認めては、まあ仕方なかった、と心をごまかします。しかし、体はそうはいきません。たとえ心をごまかしても、つまずく時はつまずく、これが体です。

体は正直です。ふとした時に、それを感じます。その正直に体に表れてきた現象を見て見ぬふりをするのが、心をごまかすということです。心をごまかしながら歩みを進めるのではなく、思い通りにならない現実を直視していくことが大事です。それを見せてくれるのが、仏法聴聞です。仏法聴聞、教えを聞いていくところに思い通りにならない現実を受け入れていく力を得ていく事になります。。

思い通りにならない現実をただ嘆くのではなく、思い通りにならないはずが、思い通りになった時に、その縁を喜ぶことができるようになりたいものです。

【心はごまかせる ごまかせぬ身に仏法聴聞】

2月の標語でした。それでは皆さんごきげんよう。

浄土真宗本願寺派・光國寺住職・石黒 大

【阿弥陀様は今ここに うれしい時も悲しい時も】カレンダー標語 令和六年一月

皆さま、あけましておめでとうございます。本年も阿弥陀様の慈光照護のもと、どうぞよろしくお願いします。さて、今年からこのブログをシリーズ化しようと思います。そこで第1弾として、お寺から毎年皆さまにお配りいたしておりますカレンダー、光國寺においては「直枉会」が発行しておりますカレンダーになりますが、そのカレンダーに載っております標語を紹介しながら、月ごとに仏さまのお心を味わっていきたいと思います。


2024年 令和6年1月の標語

【阿弥陀様は今ここに うれしい時も悲しい時も】

皆さま、阿弥陀様ってどういう仏さまかご存知でしょうか。皆様とお話しをしていると阿弥陀様に対する誤解があるように感じます。「もうそろそろお迎えに来て欲しい」とおっしゃる方がおられますが、阿弥陀様に対して誤解があるんだなと思います。その誤解というのは、阿弥陀様は【私が命終わる時にお迎えに来てくださる仏さまだ】という誤解です。実は、阿弥陀様は私が命終わる時にお迎えに来てくださる仏様ではないんです。


お経の中には、命終える時にお迎えに来てくださる仏さまだよと説いてあるお経もあります。どのような内容かというと、命終える時に正しくお念仏しているもののところに迎えに行くよ、と説かれているお経です。正しくお念佛すると言うことは、合掌の姿をきちっとして、口にお念仏、南無阿弥陀仏を称え、ここにはただひたすら阿弥陀様を思って命を終えていく、そういったもののところに阿弥陀様がお迎えに来てくださるんですよ、ということです。それぐらいなら出来そうに思える方もおられるかもしれません。もちろん出来る方はされたらいいと思いますし、それをとめるつもりもありません。しかしそのためには一度できるかどうかシミュレーションしたほうがいいと思います。

【自力念仏の救い】

先ず体、身体ですね、姿勢を正して、ただもう御臨終を迎えようとしているわけですから、床に寝てると思います。寝ながらのままで手は合掌です。次に口にはお念仏、南無阿弥陀仏を称えます。そして、心には阿弥陀様をひたすらに思い浮かべると言うことです。その時にほかの事は一切考えてはいけません。そのようにして臨終を迎えると言うことです。これを一度してみてください。皆さんはできますでしょうか。私は無理です。そもそもいつ命終えるか分からないのに、できるかどうか分かりません。

今年は元日から地震が起きました。今地震が起きるなんて思ってもいないわけです。そして其の地震で命落とすとも思っていない時に、地震が来て、「あ、いよいよ臨終だ、よし、合掌して、口にナマンダブツ、こころには阿弥陀様のことを思う。ナンマンダブツ、ナンマンダブツ、」私にできるとは思えません。2日の日の航空機の事故では、機長さんは突然機体が爆発して燃えたとおっしゃったそうです。亡くなられた5人の方は、あっと思う間もなかったようです。そんな時に「あ、いよいよ臨終だ、よし、合掌して、ナンマンダブツ、こころには阿弥陀様のことを思う。ナンマンダブツ、ナンマンダブツ、」なんて思う間もなかったわけです。

それがたとえ私が老衰で、布団の上で命終える時でも、こんな風に出来ない自信があります。どうしてそんな自信があるかというと、そんな修行をしていないからです。普段から、その臨終の一瞬にかけて、ひたすら修行してできるかどうかです。なのにろくに修行もしていない私ができるわけないのです。修行とはそういうことです。命終えた時に阿弥陀様にお迎えに来ていただいて、間違いなくお浄土に連れて行ってもらおうと、そのためには、この一生を懸けて、その日のためにイメージトレーニングを欠かさず、実践をしていくということです。私はしていません。なので無理なのです。

【浄土真宗の阿弥陀様】

私たちが手を合わす阿弥陀様、もし命終える時に先ほど言ったような正しい者のところへお迎えに来てくださるというような阿弥陀様だったら、手を合わせることができますでしょうか。臨終に正しくお念仏なんてできそうにもありません。ということは、私のところへはお迎えには来てもらえない。だったら、そんな阿弥陀様に手を合わせてどうなるんですか、ということです。
だから勘違いなんです。誤解しているんです。何を間違っているかと言えば、命終えるときにお迎えに来てくださるというのが間違いなんです。できないことを私たちにしなさいというような阿弥陀様ではないんです。

はなからそんなことはできないことはおわかりな訳です。ではどうされるか。先に迎えに来てくださっているんです。私たちの阿弥陀様は、私が命を頂いたとその時から、私のもとへ来てくださって、そして一緒に人生を歩んでくださっているんです。おぎゃあと生まれたときには、すでに阿弥陀様が迎えに来て下さっていたということです。では、私たちのお念仏はどういう意味があるのでしょうか。迎えに来てくださっているのですから、「ありがとうございます」といえばいいんですね。お願いしますという必要は無いということです。もうすでに阿弥陀様のお救いの中にあったと言うことです。これからお救いが来るわけではないのです。私の人生すべてを、阿弥陀様がご一緒くださる人生です。だからありがとうございますという気持ちで、ナンマンダブツを称えます。ありがとうございますと、お仏壇にお参りいたします。

阿弥陀様がご一緒くださるから、いつもハッピーという訳ではありません。うれしいこともあります。しかしこの度のように自然災害で悲しみ、事故で茫然自失となり、また事件に巻き込まれる苦しむことになるかも知れません。そのすべてが、私の人生です。またその私の人生すべてにご一緒くださっているのが、阿弥陀様です。

【阿弥陀様は今ここに うれしい時も悲しい時も】

浄土真宗本願寺派・光國寺住職・石黒 大

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