浄土真宗のみ教え

南無阿弥陀仏のお念仏

阿弥陀如来の

あらゆるのいのちを救う

智慧の力と

私のそのままを抱いてくださる

お慈悲の心

「慈光照護」これは浄土真宗において「阿弥陀如来の慈悲の光明はこの私を照らし護ってくださっています」という言葉です。それは私が嬉しい時や喜ばしい時。そしてまた、私が悩み、迷い、苦しい時。阿弥陀如来はいつでもこの私を見捨てることなく、慈悲の心をもって見守ってくださっています。と味わう言葉であります。


浄土真宗とは、この世で仏を目指し修行して悟りを開く仏教ではなく、この世で修行し仏と成ることは適わなくとも、この世の縁を離れる時に阿弥陀如来の本願のお念仏により極楽浄土へ生まれ往き、極楽浄土で悟りを得て仏と成らせていただく仏教です。そして極楽浄土で仏と成ったあとはこの世に還って、阿弥陀如来と共に人々を導き、極楽浄土へ往生させることができるという教えでもあります。そんな阿弥陀如来の救いを私たちにわかりやすく伝えるために、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人は今から約850年前の鎌倉時代に浄土真宗(阿弥陀如来の救い)の教えを広めていかれたのです。

浄土真宗の教章
宗名浄土真宗
宗祖親鸞聖人(1172~1163)
宗派浄土真宗本願寺派
本山龍谷山 本願寺(西本願寺)
本尊阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)
聖典・釈迦如来が説かれた浄土三部経
『仏説無量寿経』
『仏説観無量寿経』
『仏説阿弥陀経』

・宗祖親鸞聖人が著述された主な聖教
『正信念仏偈』(『教行信証』 行巻末の偈文)
『浄土和讃』
『高僧和讃』
『正像末和讃』

・中興の祖 蓮如上人のお手紙
『御文章』
教義阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩み、この世の縁が尽きるとき浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還って人々を教化する。
生活親鸞聖人の教えにみちびかれて、阿弥陀如来の み心を聞き、念仏を称えつつ、つねにわが身をふりかえり、慚愧と歓喜のうちに、現世祈祷などにたよることなく、御恩報謝の生活を送る。
宗門この宗門は、親鸞聖人の教えを仰ぎ、念仏を申す人々の集う同朋教団であり、人々に阿弥陀如来の智慧と慈悲を伝える教団である。それによって、自他ともに心豊かに生きることのできる社会の実現に貢献する。


浄土真宗の宗祖・親鸞聖人は、承安3年・1173年に京都・日野の地に日野有範の子として誕生されました。御年9歳で出家得度され、比叡山で20年ほど修行に励まれますが、修行を重ねても重ねてもどうにもならない自分の執着に悩み苦しまれます。

そして29歳の時、そんな自分が救われる道を探すために比叡山を下りられました。その後は聖徳太子建立とされている六角堂に参籠され、参籠95日目の暁に救世観音の夢告を受けて、当時人々に専修念仏の教えを説いておられた浄土宗の開祖・法然上人のもとを訪ねられます。そして阿弥陀如来の慈悲の心とその本願念仏の救いの法に出遇われたのでした。

そして法然上人のもと100日間聴聞し、阿弥陀如来の慈悲の心とその本願念仏の救いに親鸞聖人自身が救われてゆく仏道をみて浄土宗・法然上人の御弟子となられます。その後、浄土宗教団は大きくなってゆきますが、さまざまの影響のすえ教団は弾圧をうけ解体します。親鸞聖人は越後の国(現在の新潟県)に流罪されますが、その越後の国では一家庭の生活を営みながら、その土地の人々に阿弥陀如来の教えを伝えていかれたのでした。40歳を過ぎて関東に戻り、またその10年後には京都へ戻り、その後は自身の使命として阿弥陀如来の本願念仏の救いを人々に伝えるために『顕浄土真実教行証文類』とはじめとする多くの著書を残していかれました。そして、弘長2年1262年11月28日御年89歳でご往生されたのでした。

親鸞聖人は晩年のその最後の時まで阿弥陀如来の慈悲の心を聞きながら、また自らの苦悩と共に、そしてその人生を阿弥陀如来とお念仏と共に歩んでいかれた方なのです。

阿弥陀如来と南無阿弥陀仏

阿弥陀如来立像 光國寺本堂

浄土真宗のご本尊は阿弥陀如来という仏様です。では、阿弥陀如来とはいったいどんな仏様なのでしょうか。また南無阿弥陀仏のお念仏とはどういったことなのでしょうか。


阿弥陀如来とは阿弥陀仏という仏様のことです。この仏様は悟りを開く前は法蔵菩薩という菩薩様でした。法蔵菩薩の時に世自在王仏という仏様のもとで、迷いや苦しみが尽きないこの娑婆の世界に生きる命を私が救いたいと強く願われます。そして、それらの命を救うべく四十八の誓願(救いの手立て)を立てられました。その後は、それらの誓願を成就するべく、途方もない長い時間をかけ数多の行を修めてゆきます。遂にはその全ての修行を完成させて、あらゆる命を極楽浄土へ救う阿弥陀如来という仏様になられたのです。そして、その救いは「南無阿弥陀仏」のお念仏となって、今この私に届いているのです。


浄土真宗ではお参りの時に「南無阿弥陀仏」とお念仏をします。そして浄土真宗ではこの「南無阿弥陀仏のお念仏」を一番大切にしています。それは阿弥陀如来の四十八の誓願のうち、第十八願の「念仏往生の願」(浄土真宗では本願ともいいます)に阿弥陀如来の救いの中心が説かれているからです。

その内容は南無阿弥陀仏(阿弥陀如来におまかせします)とお念仏する者をあますことなく、見捨てることなく阿弥陀如来の救いの力で極楽浄土へ往生させることを誓った願いであります。また自らの力では往生できない命もお念仏によって必ず極楽浄土へ往生させると誓った願いでもあります。阿弥陀如来の救いの願いと救いの力が完成されたもの、それが南無阿弥陀仏のお念仏ですので、浄土真宗においてはとても大事なお念仏なのです。

浄土真宗では南無阿弥陀仏のお念仏をまた「他力のお念仏」といいます。それは極楽浄土へ往生することは阿弥陀如来の本願(第十八願「念仏往生の願」)の救いの力が阿弥陀如来から私に向いて働いていることを表しています。そして私の往生浄土は阿弥陀如来の本願の力におまかせする事として「他力のお念仏」を「他力本願のお念仏」ともいいます。

ですから浄土真宗のお念仏は「私が救われる」ために阿弥陀如来に向かって称えるお念仏ではなく、阿弥陀如来が「あなたを必ず救います」と私が救われてゆくことを聞いてゆく(いただいてゆく)お念仏なのです。


「お念仏によって極楽浄土へ往生させてもらう」それが浄土真宗の救いです。またそれは、ひとつに「娑婆の縁を離れても命はその先に続いてゆく」ということです。仏教は「あらゆる事象は因と縁によって生滅変化しながら続いてゆく」と説きます。ですから、「生老病死」という人の命の流れの先もまた、この世の縁を離れ姿形は変われども、命は続いてゆくのです。

そして極楽浄土へ往生することは、その因縁の流れにおいて「私の命」と「阿弥陀如来のお慈悲」を因とし「南無阿弥陀仏のお念仏」を縁として、その命は極楽浄土へ救われてゆくということです。また、極楽浄土へ往生した命は今度は仏様と成って、後に続く命(娑婆の縁の命)を阿弥陀如来と共に見守ってゆけるとも説かれています。

浄土真宗のお参りには大きく分けて2つのこころがあります。ひとつは阿弥陀如来の救いを聞いてお参りをするこころ。もうひとつは私のご縁を思いお参りをするこころです。

私が人間としてこの世に生を受けたこと。日々の生活をしていること。人生には時に色んな事が起こりますが、今まさにこの瞬間に至る私は数えきれない多くのご縁を賜わった命であります。人は一人で生きているのではなく、ご先祖様や家族、また友人や仕事の仲間など、本当に多くのご縁と共に生きているのです。そして、そんなご縁を思うと、そこにはたくさんの「おかげさま」があるのではないでしょうか。日々の生活は忙しく時に忘れてしまうものですが、よければお参りの時には阿弥陀如来のご法話とご一緒に「おかげさま」のご縁を思いながらお参りをして下さればと思います。

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