
「この口からお念仏 阿弥陀さまはいつもご一緒」
光國寺では、大晦日から元日にかけて除夜の鐘を撞きました。皆さまも、それぞれの地域のお寺で除夜の鐘を撞かれましたでしょうか。
除夜の鐘といえば、「108回撞くのですよね」「煩悩の数ですよね」という話題をよく耳にします。煩悩が108あるという説は、5世紀頃の天親菩薩(世親菩薩)が著された『阿毘達磨倶舎論』(あびだつまくしゃろん)という書物に基づくものです。煩悩は非常に細かく分類され、最終的に108あると説かれます。仏教の教えは、このように人の迷いを丁寧に見つめ、分析してきました。
仏教は心の分析を非常に緻密に行います。この書物では、まず煩悩を「執着」「怒り」などの6つに大きく分類します。そこからさらに「誤った見解」などを細かく分け、計算していくと、真理を知らないことによる煩悩が88、本能的な煩悩が10、合わせて98となります。そこに付随する副次的な煩悩10を足して、合計「108」となるのです。
これほど細かく分類される私たちの煩悩ですが、果たして鐘を撞くことで消えるのでしょうか。
厳しい修行を積む出家者ならともかく、私たちが年に一度鐘を撞いたところで、根深い煩悩はそう簡単には消えません。光國寺ではお一人につき一回撞いていただきますが、もし消えるとしてもたった一つの煩悩です。しかし、私たちが年末年始に撞く鐘に、煩悩を滅する力はありません。鐘を撞いたからといって、私たちの迷いがなくなるわけではないのです。
では、そんな煩悩まみれの私の口から出る「お念仏」とは何なのでしょうか。
仏教では行いを「身(体)・口・意(心)」の三つに分けますが、通常、口の行いは意(心)を根源として出てきます。つまり、煩悩の心からは煩悩に毒された言葉しか出ないのです。しかし、お念仏だけは違います。
お念仏は、私の行いのように見えて、実は「阿弥陀さまからの働きかけ」なのです。「私の慈悲が届いた者は、お念仏するんだよ」と、阿弥陀さまが私たちを教育し、導いてくださった結果として口に現れるものなのです。
「お念仏しよう」と意識して称える時、それは阿弥陀さまの教えを受けて練習している状態です。その練習が積まれ、自然と口からこぼれるようになった時も、その根底には「阿弥陀さまのお心」があります。
練習であれ、自然なものであれ、お念仏が出るその口には、必ず阿弥陀さまがご一緒くださっています。煩悩多き身であるからこそ、阿弥陀さまのお慈悲に包まれていることに感謝し、今月もともにお念仏申す日々を過ごしてまいりましょう。

大阪府豊中市・光國寺 住職・石黒大

